下らない日常の戯れ言。


救急車の適正利用という言葉は一度くらいはきいたことがあると思う。

救急車は一回の出動に数万円のコストがかかるが、今の日本の制度では救急要請自体にお金はかからない。一方で、タダで病院に行けることを理由に、「蚊に刺された」とか大したことない理由で救急車を呼ぶ、タクシー代わりに呼ぶケースもあり、問題となっている。

躊躇わずに救急車を呼んで欲しいという症状は、ネットを探せば、それっぽいのがいくつか出てくる。しかし、逆に呼んではいけない症状はどこにも書いてない。それなのに適正利用?どんな症状で呼んだら良いのか、逆にどんな症状で呼ばない方がいいのか、特に後者は明確な基準がないのに、素人がどうやって適正な判断をしろというのだろうか?


例えば、「虫に刺されてかゆい」という症状があるとする。

本人は皮膚に赤く盛り上がったところがあって、実際に虫に刺された場面を目撃したわけではないが、虫に刺されてかゆいと思っていた。しかし実際にはアレルギーの重症な状態(アナフィラキシー)の症状の一つで、他に何となくある下痢や咳に関して気にも止めていなかった。そうすると、119番にかけて「虫に刺されてかゆい」と訴えてしまうかもしれない。虫に刺されたぐらいで救急車を呼んだらいけないと、変に良心が働いて、自家用車で病院に向かっている途中でアナフィラキシーショックになって死んでしまったら。

誰が責任を取るのか。

おそらく後からみた人はこう思うだろう。「なぜ救急車を呼ばなかったのか」


他にもこういうこともあるかもしれない。

心筋梗塞という病気は発症すると死亡率が高い病気で、突然死の原因にもなる。一方で診断が難しい病気で現在の医療の水準では様々な検査を行っても100%みつけられるわけではなく、なまじ致死率が高いだけに訴訟社会の海外では怪しい人は全部入院なんて措置をとる病院もあるそうだ。典型的な症状は「胸が痛くて苦しい」ということだが、この病気が見つかりにくい原因のひとつとして、症状が多彩ということが挙げられる。

例えば、こうだ。

もともと糖尿病で通院をしていたAさんは、どうしても食事の制限が守れなくて、なかなか良くはならない。かかりつけの先生にも良く怒られていた。昨日も焼肉をガッツリ食べて、ビールを何杯も飲んでしまった。食べ過ぎたのか、何となく今日は胃がムカムカする。どうも調子が悪い。病院に行こうかな、でも、動くと息が上がってしんどいなあ。世間では救急車の適正利用とか言われてるし、焼肉を食べ過ぎて胃の調子が悪いなんて理由で呼べないでしょ。でも自分で車で向かうのも億劫だし、このまま寝てよう。

そして、彼が目覚めることはなかった・・・

それって本当に胃が悪かったの?みぞおちに出てくる症状は、何となく胃と思い込んでしまいがちだけど、この辺りは臓器が密集しているところで、症状の原因は胃に限らない。心筋梗塞も「胃の症状」として勘違いされやすい病気。ましてや、その息切れも、心臓が原因じゃないなんて誰が言えるのだろう。


人間なので病気の出方は色々だし、症状なんて主観的なものだから表現方法も様々。重い病気でつらくても「何となく調子が悪い」「かぜっぽい」としか表現できないこともあるだろう。だから、何か症状や違和感がある限り、それは病院で医師の診察を受けて検査を受けなければ大丈夫とは言えない。何なら、病院を受診しても「今の医療ではこれ以上わからない」なんて言われるくらいだ。呼んではいけない症状なんて決められるわけが無いし、ホームページで列挙しようものなら、それを鵜呑みにして救急車を呼ばずにヒドイことになる人が必ず出る。そして大きな批判を受けることになるだろう。

しかし誰もが気軽にタクシー代わりに救急車を呼んでしまえば、財源が足りなくなる。すでに基本無料の制度に対してお金が発生する仕組みなんか提案しようものなら、その政治家は落選するだろう。一方で現実には症状もないのにタクシーとして呼ぶ人もいるし、抑制をかけたい。コスト削減のために何か良い案はないか?

ああ、簡単だ。

良心に訴えかけて各々に歯止めをきかせればよい。

こちらは救急車を呼んではいけないとは言ってないし、何かあったときには自己責任だ。


「救急車の適正利用を!」


世の中には自己中心的に立ち回る人もいれば、自己犠牲を善しと考える人たちもいる。全員に抑制をかける必要は無い。全体の中で一部の人でも利用しなくなれば、十分費用を削減できる。献身的な彼らの心をくすぶるには、もう少し後押しが必要だ。


「軽い症状で救急車を呼んでしまうと、重い病気の人が助けられなくなるかもしれません。」


さらに一言


「あなたの決断で助かる命があります!」


こうして、見慣れたポスターが出来上がる。

コストを削減する、もしくは利益を生み出す簡単な方法は他人を犠牲にすること。しかし詐欺まがいの露骨な行為は批判を受ける。賢い(?)やり方は、搾取するのは少数の対象に絞って、人の善意を利用すること。クレーマーを相手取ると面倒だし余計にコストがかかる。そこは多少のコストを支払ってでも避けた方が得になるだろう。つまりタクシー代わりに救急車を呼んだ人には何も言わないのである。自らを「大人」と思っている愚かな人達は裏の意図を上手く包み隠せば、自分の責任として勝手に納得してくれる。彼らからこっそり搾り取る。


抑止力というのは良心に訴えかけるだけではない。日本の文化も絡んでくる。

救急車で運ばれて結果的に何も重病はなかったという時に(そんなことは運ばれる前の症状から分かるわけがないのだが)、残念ながら近所の人にヒソヒソされる。日本では「周囲の目」という厄介な文化がある。個人の利益よりも自己犠牲を善しとしなさいというアレだ。あくまで周りから見える範囲の建前上は、という話だが。しかし救急車はとても目につく。救急車の適正利用の広告のウマいところは、個人と集団の利益のどちらを優先するかお前ら分かってるよな的な内容をさり気なく組み込んでいること。

「あの人、ただの風邪で救急車を呼んだんだって。」

で終わる噂話に

「軽傷で救急車を呼んで、助からない人が出てきてしまうことを何とも思わないのかしら?」

と、“正当な”批判が付け足されてしまう。嫌らしい。良心+慣習の二重でブロックしてくるわけだ。手強い。


・助かりたいなら周りの目を気にせず救急車を呼べ

・体裁を気にするなら命を懸けろ

こんな二択にしてしまう「救急車の適正利用」という言葉は、僕は嫌いだ。







まあ、ただの捻くれた考え方かもしれないけどね。


システムは個人の事情や利益よりも集団の存続を優先する存在であるし、多かれ少なかれ個人に損をさせる仕組みで成り立っている。そこにどんな不義があろうとも。システムではなくて個人の立場からすれば、もっとそこに人情があってもいいよなあ、とは思ってしまう。でもそれは、世の中を斜に構えた気でいる無能な個人、言い替えれば搾取する側になれなかった負け犬の遠吠え。正義を貫いて多少の満足感を得る代わりに、時間的に、経済的に、身体的に、精神的に不利益を被ることを拒絶できない、“賢くない”普通の人間の嘆きである。本当は割り切って賢くなれる人のことを嫉んでいるだけなんだろうけど。

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